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元治元年9月15日(1864年10月16日)

・9/15
【京】御所九門が開かれる
【京】<


☆京都のお天気: (『嵯峨実愛日記』)

>第一次幕長戦へ
【京】元治1年9月16日夜、征長副将・越前藩主松平茂昭は、12日に上京した老中阿部正外を訪ね、徳川慶勝の征長総督拝任の有無及将軍の進発期を問いました

14日、近衛様へ参上し、御建白の御主意を委細申し出たところ、御同様の思召で・・・その帰りに会津藩にも出向いたが、御進発の件については次々使者も差し出されており、当時肥後守様も御病中ではあるものの、御病床にて御建白の御書を御認めになり、近日関東へ差し出されるとのこと。その他、諸藩はともに御進発御神速の儀を渇望している。(長谷川仁右衛門京地事情書)
『稿本』(綱要DB 9月13日

(14日?)長谷川が、阿部閣老に拝謁したところ、(将軍進発については)<幕府数百年の大平で御武器等を整えておらず、たとえば百挺もあるはずの物が五十にも不足し、御組方など50人いるべきところ、12、3人くらいのことで、その他万事それに応じ・・・なかなか急速の御進発ができない。しかし、15日から18日の間に将軍様の行軍御覧があり、その後、御進発の期日を定められるはず>とのことだった。長谷川からそれでも定まらない場合はときくと、<その節は、自分が早速駆け下って御催促申し上げる覚悟である>と御返答があった。・・・外国の件は、賢明の諸侯を集め、相謀って国家の基本を立て、外国への処置も皆一途に出るよう成り行き申さず?とのお話である。その心配等は列藩の有志の面々にも内密に申し談じるよう重役中にも話し置くよう仰せられた。長谷川出府のこともお話申し上げたところ、松平伯耆守様へ後のことは御頼み置かれたとのこと・・・である。

有志大名御集合の件は、薩越の有志の者は皆同説で、昨日(13日?長谷川が?)大島吉之介・村田巳三郎へ参り話し合いの様子が大いに進み、村田も大いに喜び、吉之介も早々藩内で熟談すると帰って行った。村田の話では、上は朝廷、下は越前・薩摩が、その儀を「急決」したが、一橋公へは元春嶽公・大隅守様をお好みか計り難く、そのところは阿部閣老より十分に御説を破る御氷解に到らなくてはなり難いと、今朝(14日?)、越前藩諸有志を召し連れられ、閣老へ御出でになった。(藩主も会えないのに??)

先日来、右の通り、幕府の因循で、いたすべき様もない。越前公御出京の儀につき、京都詰の幕府へ御届の上御進発になるよう朝廷の御内議もあったので、一橋公附属の幕府人なども右の説は大に喜んでいるくらいで、幕府の御模様次第では、自然にその運びにいたるだろうと諸藩で話している。

長谷川仁右衛門京地事情書)『稿本』(綱要DB 9月13日


9月15日朝、兵庫の勝海舟の使者が肥後藩長谷川仁右衛門を訪ね、坂本龍馬の伝言を伝えた。その内容は、薩摩藩の周旋で、勝の召命の内議となり、今朝のうちにも御達しがある見込であること、そうなれば直に上京し、16日朝迄には着京するので、それまで長谷川にも滞京するようにというものである
>。(「伊達家雑録」『稿本』/綱要DB 9月9日 No16)

9月15日、肥後藩長谷川仁右衛門が酒井十之丞を訪ねた。長谷川は、<肥後藩においても大樹公の進発を希望し、その勧告のために、明16日京都を発し、江戸に下る予定である。このほど阿部豊後守殿に閲して関東の状況を承り、かつ大樹公御進発を促すために東下するつもりだと申したところ、阿部殿は、日限は定められていないが、既に進発の準備を整えられたので、当月中には必ず発途あるはずである。鄭重の上にも鄭重を要することなので、越中守殿(肥後藩主細川慶訓)にそのような御意見があるならば、速やかに出府されるとよいと答えられた>と言った。(「枢密備忘/征長出陣記」『稿本』(綱要DB 9月13日No85)

昨朝(15日?)は肥後藩(長谷川仁右衛門)と面会したところ、肥後・薩摩の両藩で征長を願い出、勅許を得て速やかに討つべきとの議論があった。「私方にては頓と諸藩の受も宜」くないので、肥後さえ御引き受けになるなら、肥後次第でいかようとも致そうと、すぐさま同意したところ、色々難しい故障を言い出した次第である。これまでの肥後の情態から考えると、あまりできすぎなので却って不安心である。両藩で引き受けることはとても難しいと申し出れば、どのような激論を起こすことか。早速同意の段を申し出たところ故障が出来し、いまだ本気のものかは分からない。(長谷川は)摂海異船処置の議論は、本文勝の策に同意との話である。御国許(=薩摩)にも肥後から御使者が参ったそうだが、どういう説だろうか。征長を激しく申したかどうかお知らせいただきたい。(9月16日西郷書簡)


【京】肥後藩京都留守居上田久兵衛、藩主細川慶順「越中守」実弟長岡良之助「護美」の征長出兵により、上京を延期せるを幕府に禀す(綱要)
茂昭 9月16日夕八つ出邸し、阿部豊後守殿を訪問される。このとき、総督が未だ確定にいたらず、尾張前公はいかが仰せ立てられているのか
阿部 文通3、4回に及んだが今もって御返書がないほどで、未だ総督の命を請けられていない。しかし、近々上京されることは相違ないので、入京された上は一橋殿とともにあくまで(総督を引き受けるよう)勧告する決心である。
茂昭 大樹公の進発はいよいよ御相違あるまいか。
阿部 御進発になることは早くに決まったが、二百余年なかったことなので、万事調わず、第一、諸物頭は老人のみで、その組子も老幼混じっている。これを淘汰するだけでも容易ならざる事業であるのに、武器類も多くは古く壊れており、これを修繕するにも多数の時日を要する。非常に困却したが、追々手数を尽くし、本日10日までには大方整理ができるので、11日に行軍を試み、15日に大樹公が一覧され、その後、進発の期日を定められる筈である。多分、当月下旬には発途され、それより一日五里あるいは七里の行軍で大坂に到着され、10日ばかり同所に滞城の上、さらに姫路まで進まれ、姫路からは時宜により軍艦をもって広島城に進まれる予定である。
(枢密備忘のてきとう訳)

阿部老中は、茂昭に対し、征長後に将軍が長期に滞坂し、諸侯を集めて、「断然」国是を決定する予定なので、そのときには春嶽に是非上京してほしいと述べました。
阿部 (茂昭が速やかに上京しあことを殊の外称賛し)大蔵大輔殿(=春嶽)も引き続き御上京されるだろうか。
茂昭 国許が無人であり、過般御許容になったように当分は上京はない。
阿部 征長の一挙が成功した上は、大樹公が上洛され、「国是ヲ定メラ」れるはずだが、その節は、「天下ノ諸侯ヲ召集」されるので、大蔵大輔殿には是非御上京を希望する。大樹公には、先年来、両度まで上洛されたが、多分の経費を要せられたのみで、些少の効益もなかったため、今回は「半年カ一年ニ渉リテモ大坂ニ滞在セラレ断然国是をサダメラルルナルヘシ
茂昭 最近、外国人が軍艦で摂海(=兵庫)へ来るという風説があるが、そのような事実はあるのか。
阿部 そのような事はありえない。万一あるとしても政府(=幕府)に告げずに来ることはないので、政府が必ず諭止する。
(枢密備忘のてきとう訳)

<ヒロ>


参考:「枢密備忘/征長出陣記」『稿本』(綱要DB 9月16日条No 4)((2018/6/6)

【坂】元治1年9月16日、西郷吉之助(隆盛)は国許の大久保一蔵(利通)に書を認め、去る11日の軍艦奉行勝海舟との初対面を報じ、「共和政治」を力説しました

越前候が去る6日、御着京にあり、すぐに村田巳三郎等に問い合わせたところ、非常の備えで御出張になったわけではなく、平時の御上京ではあるものの・・・是非、征長の儀は、総督を待たずに御出兵になるよう・・・進言したが、振り切りかねる様子に伺われた。畢竟、御国内(=藩内)の「混雑」もあり、「断然の御策」ができかねるようだった。

そうしたところ、越前藩から、幸い勝安房守殿(=勝海舟)が関東へ下向するので、両藩から将軍上洛に尽力してくれるよう願い入れてはどうかと言ってきた。すぐさま同意し、(11日に)吉井(幸輔)と私が下坂した。越前藩は二人派遣され、越候(=藩主松平茂昭)の直書を差し出された。

(勝に)両藩が段々迫ったところ、幕府の内情も打ち明けられた。(それによると)「誠に手の附け様」のない形勢となっている。畢竟、幕吏は、今回の一戦で「暴客」(=過激派)が恐縮し、「もふは身の禍を免」れた心持で「大平無事の体」となり、「奸威」が起こり立つ向きらしい。しかし、幕吏もかなり老練で、どこに「権」があるかは知れぬようにし、「一同して持ち合」っている姿である。その中でも諏訪因幡(=老中諏訪忠誠)と申す者が「魁首」らしい。色々「正義」(=正論)を主張すれば「御尤も」と同意しながら正論の者を退けるので、とても「尽力の道これなき」だという。

それでは「奸吏」を遠ざける策はないかと問いかけると、一小人を退けるのは訳もないがそれを「受け取る」(=引き受ける?)者はない、つまり議論を立てる者は倒れる外ないとのことで、解決策はないということである。

諸藩が力を尽くしてはどうかと、さらに迫ると、それは引き受ける人物がいれば行われもするだろうが、薩摩からこのような議論があると役人に持ち出せば、すぐに薩摩に騙された人物と言われ、落し付ける様子なので、諸藩が尽力しても「無益」だとの説で、いたしかたない次第である。

幸い阿部老中が上坂しているので人となりを訪ねたところ、「余程」ほめられた。何か策を勝氏より授けられた様子で、(阿部が)一昨日、京都に着いた。勝氏も上京のつもりである。この機会に、私も(阿部)閣老へ(面会を)申し入れて置いたところ、昨夜(15日)、篤と談判いたすよう、書面をもって申し越されたので、是非拝謁を願い、一問答はいたす含みである。阿部が「其人」(=依頼すべきひと)であれば諸藩より助け、幕奸の四・五輩は断然勅命をもって打ち落とす策でもなければ、とても埒が明かないと考えている。(阿部に)その気力がなければ、必ず無策に「踏」(陥る?)ことであり、口を閉じようと考えている

勝氏に初めて面会したが、実に驚きいる人物で、最初は打ち叩くつもりで出向いたが、とんと頭を下げた。どれだけ智略があるか知れぬ塩梅に見受けた。まず「英雄肌合」の人で、事の出来については佐久間(象山)を一層越えているかもしれない。学問と見識においては佐久間は抜群だったが、現時に臨んでは「此の勝先生とひどくほれ申し」た。

〇摂海へ外国船が迫った時の策を尋ねたところ、いかにも「明策」だった。只今、外国人も幕吏を軽侮しているため、幕吏の談判では成功しがたい、いずれ、「明賢の諸侯四・五人も御会盟」になって外国艦を打ち破ることが可能な兵力で、横浜・長崎の両港は開き、摂海(開港)については筋を立てて談判し、きちんと条約を結べば「皇国」の恥には成らぬようになり、異人は却って条理に服し、その結果「天下の大政」も相立ち、国是が定まるとの議論で、実に感服の次第である。いよいよそのようなことになれば、「明賢候」が(京都に)御出揃うまでは、(勝が)受けあって、異人を(摂海に来ないように)引き留めておくとの説である。

これについては、今よりそのような議論を立てれば決まって破れ、(幕府も諸侯)離間の策を用いることは疑いがないので、摂海に異人が迫った際に初めてこの策を唱え出して急速に決しなくてはなるまい。「一度此の策を用い候上は、いつ迄も共和政治をやり通し申さず候ては相済み申す間敷候」なので、よくよくご勘考下されたい。(薩摩藩が)もしこの策を御用いにならなければ、断然と「割拠」の色を顕し、(薩摩藩のみの)富国の策に出なくてはすむまいと存じ奉る。しかしながら、順序を言えば、征長のところが第一の訳であり、(征長を)促し立て、油断は致さぬので、左様ご納得いただきたい。

昨朝は肥後藩(長谷川仁右衛門)と面会したところ、肥後・薩摩の両藩で征長を願い出、勅許を得て速やかに討つべきとの議論があった。「私方にては頓と諸藩の受も宜」くないので、肥後さえ御引き受けになるなら、肥後次第でいかようとも致そうと、すぐさま同意したところ、色々難しい故障を言い出した次第である。これまでの肥後の情態から考えると、あまりできすぎなので却って不安心である。両藩で引き受けることはとても難しいと申し出れば、どのような激論を起こすことか。早速同意の段を申し出たところ故障が出来し、いまだ本気のものかは分からない。(長谷川は)摂海異船処置の議論は、本文勝の策に同意との話である。御国許(=薩摩)にも肥後から御使者が参ったそうだが、どういう説だろうか。征長を激しく申したかどうかお知らせいただきたい。


〇(軍資金のこと)

【坂】元治1年9月16日、西郷吉之助(隆盛)は国許の大久保一蔵(利通)にさらに書を認め、去る11日の軍艦奉行勝海舟との初対面を報じ、「共和政治」を力説しました

今朝、越前藩堤五一郎が参り、横浜から異船が当月9日に出帆し、摂海へ参って談判しようと幕府に交渉したが、一向に「取り占り」がないと知らせてきた。(外国は幕府を)「余程見限り候景気」のようだ。既に「明賢諸侯御集会」によって「皇国」の御恥とならぬよう、「屹と致したる談判」(=きちんとした条約交渉)をしたいものだと評議もあり、越前・肥後は皆同論だが、阿部閣老・一橋慶喜辺りの模様が分からないため、懸命に下ごしらえをしているので、御得心していただきたい。異人の手を離れれば「幕奸」も手段が尽き果て、必ず「天下の大政」が実現するだろう。この一機会大事の場合である。追々、様子次第で急飛脚で申し上げるが、何分、早く蒸気船一艘は御遣わしになるよう御周旋を願いたい。

<ヒロ>
西郷って、好き嫌いが激しいです。茂昭は「越公」だけど慶喜は呼び捨てです(慶喜に対してはここのところずっとです)。「幕奸」とか、使う言葉も、なんていうか、敵対心むき出しで好戦的で、読んでてちょっとへきえきします。そんな西郷のいう「天下の大政」って、結局、薩摩藩主導という「私」が見え隠れする気がします。越前藩の場合は純粋に「公」のためって思えるんですけど・・・。(一体いつになったら敬天愛人になるんでしょう???)

>小笠原長行
【江】元治1年9月16日、幕府は、唐津藩世子小笠原長行を赦免し、官位を復旧しました


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